コラム
EVENT REPORT

講演録
イベントレポート

第129回紀伊国屋サザンセミナー
会場:紀伊国屋サザンシアター

『夢をかなえるコツ』出版記念講演会 講演録 第一部(1/4)

みなさんこんばんは。ただいまご紹介をいただきました白石でございます。この度『夢をかなえるコツ』という本を出版いたしました。私が最初に本を出しましたのは1988年のことでした。そこから今年で25年が経ったということになります。今回の『夢をかなえるコツ』は、私の25冊目の本ですので、おおざっぱに言って、1年に1冊ほど本を書いてきたということになります。

みなさん、ちょっと周りを見回していただくと、どこかで見たような顔だなあと思われる人がいませんか。今日は、このホールに現役のトップアスリートも何人も来ていますし、またオリンピックやプロのコーチもたくさん来ています。私がそうしたトップアスリートやコーチたちのメンタルサポートをするようになってからも、やはり25年になります。その間、そういう方たちがそれぞれの夢とか目標をかなえていくお手伝いをしてきたというわけです。私はメンタルコーチを仕事としてやっているわけではないのですが、彼らが次々と結果を出し、それが口コミで広がって、いまだにいろいろなスポーツ種目の選手が相談に来続けています。

私の本当の仕事は大学の教師で、これは32年やっています。つまり、授業が私の本業です。世の中には、仕事をイヤイヤやっていらっしゃるという方もいるかもしれませんが、私は大学で学生相手に授業するのが大好きです。この32年間で1回も休講したことがありません。ですから、学生にとってはちょっと迷惑な教授かもしれません。何しろ日本の大学生は、休講を喜びますからね。

でもこれは大変まずい話で、アメリカでもヨーロッパでも、学生たちは本当によく勉強します。「大学で勉強して自分のキャリアアップを図ろうとしているのに、勝手に休講なんてしないでくれ」というわけです。社会に出て行く最後の学びの期間でのこの差は、とても大きいと私は思っています。ですから私は、大学の教師である限りは、学生たちにとってできるだけ有用な情報と体験が得られるような授業を提供したいと思ってやってきました。

東京オリンピック

昨日の早朝(2013年9月8日)、みなさんはどうされていましたか。私は3時半頃から起きて、2020年のオリンピック招致活動の最終プレゼンテーションを見ていました。各国のプレゼンテーションが終わり、1回目の投票でマドリードが落ちました。続いて東京とイスタンブールの決戦投票が行われました。午前5時20分。IOC会長のジャック・ロゲさんが、オリンピックマークの入った封筒からカードを取り出し、こちら側へひっくり返して、“TOKYO”と告げた時、日本の招致団の人たちはいっせいに立ち上がり、喜びを爆発させていました。それは私も同じで、本当に嬉しく思われました。バブルが弾けて以降のこの20年余り、ずっと重苦しい暗雲がたれこめていた日本に光明がさすかもしれないと思ったのです。

私は1954年に生まれました。太平洋戦争が終わって9年経っていましたので、私にはひもじいとかいうような記憶はあまりありません。もちろん、今に比べれば私の家も日本全体も、とても貧しかったと思います。小学校に入学したのは1960年です。途中、石油ショックなど紆余曲折はありましたが、その年から日本の高度経済成長が始まり、戦後15年にわたって地べたを這うように低迷していたGDPが恐ろしい勢いで急上昇していきます。それは、1991年3月のバブルが弾けるまで続きました。その高度経済成長のまっただ中に、私は小学生、中学生、高校生、大学生、社会人となっていったのです。

私が小学校1年生の時は、家には裸電球とラジオしかありませんでした。ただその頃から、お金持ちの家にテレビというものが入り始めます。もちろん、白黒のテレビです。たぶん何十軒に1台ぐらいだったのではないでしょうか。その家の厚意に甘えて、週に一度ぐらい、夕方近所の子供たちが集まってテレビを見せてもらっていました。私の子どもの頃の記憶は、そんなところから始まっています。

「うちにもテレビが来ないかなぁ」と思っていたら3年生、つまり1962年には私の家のようなごく一般的な家庭でも、テレビが買えるようになっていったのです。洗濯だって、母親が洗濯板でやっていたものですが、電気洗濯機に変わりました。続いて電気冷蔵庫も家にやってきました。そうして5年生になった1964年、なんとアジアで初めて、東京でオリンピックが開催されることになりました。

私が子どもだった頃は、学校から帰れば野球ばかりやっていました。そもそもスポーツがそんなにたくさんあるなんてことすら知りませんでした。私は当時、九州の大分におりましたが、オリンピックの年は国中がたいへんなエネルギーにあふれていたのを覚えています。もちろん東京では、はじめて首都高が走り、大阪~東京間の新幹線が開通し、終戦直後は焼け野原だったこの街が超近代都市に生まれ変わっていったのが、あの東京オリンピックの時でした。体操競技への目覚め  私は10月10日の開会式から、ずっとテレビを見続けていました。開会式では、後に私の大学の大先輩となるローマオリンピックの鉄棒のチャンピオン、小野喬さんが日本選手団のキャプテンとして選手宣誓をされました。このオリンピックでは、日本は16個の金メダルを取るわけですが、そのうちの5個を私が後々やることになる男子体操競技が獲得したのです。それまでの私は、スポーツといったら野球しか知らなかったわけですが、東京オリンピックを見て、なんとたくさんの競技が世界中で行われているのかを知ったわけです。

みなさんは体操競技をご覧になると、「人間業ではない」と思われませんか。当時の私もそうでした。「人間は、鍛えればこんなこともできるようになるんだ。その世界の頂点に日本選手がいるなんてすごいなあ」と思ったわけです。それでそれまで毎日使っていたバットやグローブを置いて、バク転の練習を始めたんです。バク転なんてできる子は、小学校にはいませんでしたから、これができれば体操選手になれるような気がしたのかもしれません。

それに加えて、これも同世代の方だけがわかる話ですが、その頃TBSテレビで『隠密剣士』という忍者がよく出てくる番組をやっていたのです。そこに出てくる忍者が、斬りかかられて逃げて行く時に、バク転をして逃げるんですよ。日本男子体操のオリンピックの活躍と、その忍者のバク転が、私の頭の中でダブっちゃったのかもしれません。それでバク転の練習をまったくの自己流で始めたわけです。

バク転は、後ろに跳ばなくてはだめなのです。でも人間には、後ろに目がついていませんから、誰だって初めはとても怖いのです。子ども心に、なんとかショックをやわらげようと考えたのでしょう。親に内緒でマットレスを部屋に広げて、その上にもう一枚お布団をひきました。それでもなんか首を折りそうな気がしたので、枕を頭に紐でくくりつけたんです。今から考えたら、「お前よくそんなやり方で死ななかったね」みたいな、すごく原始的なやり方なんです。それでも何度かやっているうちに要領がわかってきて、3日くらいでできるようになりました。それが嬉しくてどんどん練習して、1週間もしたら校庭の土の上で、バク転を何回も連続していました。

そんな小学生時代を過ごした私は、卒業の時の文集に将来の夢を二つ書いたのです。一つは体操でオリンピック選手になるということ。もう一つは当時の東京オリンピックの体操競技のメダリストたちがなぜか大学の先生ばかりだったので、自分も大学の先生になるという夢でした。二つ目の大学の先生になるというのは、比較的早くかないました。1972年に東京教育大学に入学して、1975年には筑波大学の大学院の1期生として3年、そして筑波大学の助手を3年やった後、福島大学に赴任したのが1982年です。ですから大学の教師となって、今年で32年が経とうとしています。

「体操でオリンピックに行く」というもう一つの夢は、残念ながら実現しませんでした。怪我を何度もしましたし、きっと才能もなかったのでしょう。そしてあの頃の私は、ただ一生懸命練習すればうまくなるとしか思ってなかったのだと思います。今の私だったら、「何をするにもコツがあるんだよ。それをわかって練習しなければ、上手にはなれないよ」と言うでしょう。

コラム一覧

連載「ビジネスに活かすメンタルトレーニング」
  • 講演録・イベントレポート
  • PAGE TOP

    ©2013 Yutaka SHIRAISHI